赤い弓兵の背中に憧れて(下)
見える…浪人の未来が…(絶望)(ここに書くネタなくなってきた)(そんな人生)(黙れ皮つき)
どもども、ようやく自分語りまでこぎつけられました。
色々話しましたが、ついに僕がFate/stay night [UBW]をどうして好きなのかについて、また何に影響を受けたのかについて語りたいと思います。
その前に、色々と知っておいてほしいあらすじをこの前書いたので、お時間ある方はそちらも読んでいただけるとわかりやすいかと思います。
あらかじめ言っておくとクッソ長いのでそこだけご了承を()
さてさて、そんなわけで僕がなぜ士郎とエミヤ(アーチャー)に惹かれたのか。
僕自身の人間性との類似点が多かったことからくる共感・感情移入。
そして僕にはないものを得た(結論にたどり着いた)。
というところが、ザックリとした理由です。
僕は昔から、自分という存在がとても曖昧で、それについてずっと考えてきました。
年を重ねるごとに自分に対する評価は変化していき、やがて自分という存在の空虚さ・薄さに嫌気がさしていました。
「自分」という存在がなく、あくまでも「他者」が行動の基盤に置かれており、そこには自分の内から湧き出るモノがなかったのです。
少なくとも自分自身ではそう感じていました。
好きなこと・得意なことはあっても、「やりたいこと」はなかった。
自分の中核となるもの、すがるもの、信念、理想
そんなものはなく、ただ日々を「なんとなく」で生きていました。
周りに合わせて生き、自分の意見は押し殺し、ひたすら相手を分析し、状況を俯瞰しました。
そうして、「ただ他人から求められる姿」を追求し、見せ続けてきました。
それが普通、誰しもがそう。
時にはこんなことも言われました。慰められることも、励ましを受けることもありました。
でも、それを受け止める自分がいないのです。たとえ励ましであっても、メンヘラ話はめんどくさいから終わらせようとしただけの言葉でも、それは何か別の空間に置いていかれるかのように、溶けてしまうのです。
幸いにも色々なことへの適性はありました。頭も悪くなかったし、運動もそこそこできました。あらゆるスペックが中の上くらいであったのは、幸運でもあり不幸だったのかもしれません。
これのおかげで、一通りのことは真面目に取り組めば平均にはこなせたのです。このせいで、より「周りの求めるカタチ」を実直に体現することができました。
自分からではなく、あくまで
他人が言うから。
これをすれば喜ばれるから。
自分にはそれができるから。
自分ではわからないから、言われた通りに。
そんな風にして、これまでを生きてきました。
そんなことを考えていたときに、Fate/stay night [UBW]に出合いました。
びっくりしました。
主人公の男は、自分よりも他人の方が大切だと言う。
それを認められず、その男を亡き者にしようとするのは、遠い未来で、その男が自身の理想を正しく叶えた姿だという。
何度も見返しました。
何度も同じ場面を、それこそセリフを一言一句覚えるほど見て、何度も彼らの語らいを、己の信念のぶつかり合いを、何度も、何度も、そしておそらく、これから先も何回でも見返すであろうほど、強く惹かれました。
主人公の士郎は、己から湧き出るものがなかった。自分の考えや感情がなく、あくまで他人のために行動するという存在でした。
自分と似ていると思いました。けれど、一つだけ、決定的に僕とは違う部分がありました。
彼には、自分の中心となる理想があったのです。
たとえそれが借り物であり、自分の内から出たものではないにしても、自分の中で絶対に譲れないものがあったのです。
そして、エミヤシロウという男の生涯はその理想を叶えるために費やされ、やがてはついにそれを叶えてみせたのです。
それは、どんなに難しく、歪であり、また美しいものであるのか。
自分から生じたものでなくとも、一つのことのために生き、それに人生を捧げ、ついには成し遂げる。
僕はそのことを知ったとき、鳥肌が立ちました。
作中の言葉を借りるならば。
「そう生きられたのなら、どんなにいいだろうと憧れた」
のです。
さらに、自身の理想を叶えた後、そこには何も残らなかったと絶望したエミヤを、士郎が倒すとき、彼はこう結論づけることで、これから歩む道に光明を見出します。
「自分よりも他人の方が大切なんてのは、偽善だとわかっている」
「けれど、誰もが幸福であってほしいという”願い”は美しいもののはずだ」
「最期まで自身が偽物であっても、その願いは、決して、間違いなんかじゃない」
彼は、自分自身を偽善に満ちた存在であったとしても
自分の生き方は、理想は、美しいもののはず
だと肯定してみせたのです。
「自分」ではなく、「生き方」の肯定。
それはとても、衝撃でした。
自分なんてものはなく、どこまでいっても空虚な存在であっても、その過程で多くのことを成しえたのなら、その”生き方”には、「何か」があったのだろう。
そんなことを僕は感じ取りました。
僕は自分という存在がなく、あまりにも空虚で、希薄さを感じていました。
けれど、最期に、その過程を振り返ってみて多くのものがあったのなら、それは「良いモノ」ではないだろうか。
という結論にたどり着くことができました。
終わり良ければ総て良し
という言葉のニュアンスに近いですが、そのように、自身の生き方を認めることができたのなら。
多少は、あの背中に近づけるのだろうかと。そんなことを思うことができたのです。
まあ、肝心のどう生きたいかとかはまったく定まってないんだけどな!!!
とりあえず自分ではなく、そういう自分の生き方を認めることができるってだけでも、良いってことにしようという現実逃避癖がついただけです!(怠惰)
以上、こんなドメンヘラのブログを読んでくださりありがとうございました。
次回以降はメンヘラ成分抑えていくんで、安心してくれよな!
あといないとは思いますが、もっとUBWについて知りたいという方はパワポとか準備していくんで呼んでください(ウズウズ)
ではでは~(´・∀・`)
赤い弓兵の背中に憧れて(中)
お昼寝…気持ちいい……(虚ろな目)(勉強はかどらない)(もう嫌だ)(その心の虚空…私からのプレゼントよ)
どもども、てことで今回はFate/stay night [Unlimited Blade Works]のアーチャーと士郎について語りたいと思います。
今回も前回と同じくネタバレが大量に含まれているので、もしアニメ視聴を考えている方は気をつけてくださいませ。
※今回クッソ長いです。そして長すぎて自分語りまでいけないのでそれは来週になります…()
さて、主人公である士郎くんについて前回サラッと紹介しましたが、彼について語るうえで重要なことがあります。
それは彼の理想についてです。
士郎は幼少期に、とある大事故に巻き込まれ、一人の男に助け出されます。
この男が後の養父となる、衛宮切嗣(きりつぐ)であり、彼もまた様々な背景があるのですが、そちらはFate/Zeroをみてくださいね☆
切嗣は以前、とある理想を持っていました。
それは「正義の味方」になること。
物語の登場人物のように、困っている誰かを助けられる存在。苦しむ人々すべてを救う存在になる。そんな正義の味方になりたいと願い、そして挫折したのです。
そのことを聞いた士郎は、こう約束します
「しょうがないから、オレが代わりになってやるよ」
と。自分にとっては他ならぬ正義の味方であり、ヒーローのような存在である切嗣の理想を、代わりに叶えると言ったのです。
こうして士郎は「自身は正義の味方にならなくてはいけない」という強迫観念とも呼べる理想のもと、成長していくことになります。
しかし、そんな士郎の掲げる理想には問題がありました。
士郎には自分が発端と呼べる感情や意思がなかったのです。誰かを助けたいという理想に囚われるばかり、「自分のことよりも他人の方が大切であり、自身は二の次として行動する」という歪な人間になっていました。
事実、聖杯戦争に参加することを決めた理由は
「願いを叶える人間が悪者であるとひどいことになるかもしれない」
からであり、それを阻止することを目的として参加しました。つまり
願いを叶えるためではなく、誰かが傷つく可能性を減らすために、命の危険がある聖杯戦争に参加したのです。
自身に叶えたい欲求など何もなく、ただ「誰かを助けたい」という理想のために行動する士郎の在り方が、Fate/stay nightの作品を通して描かれるテーマの一つなのです。
そのような正義の味方になること。困っている誰かを助けるために自らを犠牲にする行為こそが、士郎の生き方であり、そこに「自分」という存在はなかったのです。
ここが、まず一つ重要なポイントです。覚えておいてね。
そして、物語の中でそのような歪な在り方を幾度となく否定し、皮肉る存在がいます。
それが、アーチャーです
彼は士郎の理想を正面から「無意味」だと否定しました。
作中で彼はこう述べます。
「誰かを助けたいという願望が己の内から出たものならば、その罪も罰も自分が生み出したものであり、背負うことすら理想のうち。しかしそれが仮初めのものならば、お前の理想は”空想”に堕ちる」
「他人による救いは救いではない。そんなものは金貨と同じであり、使えば他人の手に渡ってしまう。自分自身を救うという望みがないため、自分も他人も救うことができない。」
「そしてそれをお前(士郎)は、おそらくは死ぬまで永遠に繰り返すのだろう。誰も救うことができない、偽りのような人生だ」
と。
士郎には自分というものがなく、そして他者を助けるということしか考えていないため、結局「救う」ということの本質が理解できていないのだと言います。
なぜこのようなことが言えるのか。それはアーチャーの正体から明らかになります。
アーチャーの真名は「エミヤ」
彼は未来において士郎が己の「正義の味方になる」という理想を叶えた姿だったのです。
しかし、アーチャーは理想を叶えたことを非常に後悔していました。
なぜなら、「正義の味方」は間違いであり、そのような存在はあってはならないという結論にたどり着いたからでした。
士郎の養父、切嗣が正義の味方を諦めたのは
「誰かを救うということは、結局、誰かを救わないということ」であるからでした。
アーチャーも同じような結論に至ります。
困っているすべての人間を助けることなどできず、多数の”誰か”を助ける一方でごく少数の人間には絶望を植え付けるという行為が、救いという行為であると悟ったのです。
英霊となっても、アーチャーは心のどこかで自分の追い求めたものとは違うと感じながらも、あらゆる人間を助け、その一方で多くの人間の命を奪ってきました。
そうして、最期まで自身の理想にしがみつき、やがてそれすらも過ちだと気づき、すべてに絶望した彼は、己のために、士郎を亡き者にしようとします。
何も得られない、無意味な人生であるのならば、そのような人間はいない方が良いと、アーチャーは何度か士郎の命を狙います。
「理想を抱いて溺死しろ」
という言葉を吐き捨て、エミヤシロウという男の人生には何もないのだという後悔を持って、彼は戦うのです。
そして、物語の終盤
エミヤと士郎の一騎打ちが行われます。
自分の理想を貫き通そうとする士郎と、その理想を否定し存在ごとなかったものにしようとするエミヤ。
どちらもお互いを認めることができないために、激突します。
しかし、士郎にはやはりまだ自分というものがなく、エミヤの言い分が正しいもののように感じられ、弱気になってしまいます。
そしてさらに、エミヤが行き着いた先。これから自分が歩む道として、エミヤの宝具が発動します。
”無限の剣製(アンリミテッドブレイドワークス)”
と呼ばれるもので、一時的に現実世界を心象風景で塗り替える「固有結界」という大魔術になります。
用語難しいと思うのでとりあえず「エミヤの心の世界につれていく宝具」と思ってください。
この世界を見た士郎は完全にすくんでしまいます。
一面の荒野に剣が無数に刺さっており、まさしく「何もない」ような寂しい風景なのです。
「これからその道を、この足が歩くかと思うと、心が欠けそうになる」
というセリフが作中で使われるほど、士郎は絶望します。
そのような中で、防戦一方になった士郎は瀕死の状態にまで追いやられます。
誰かを助けたいという思いは、幼少期に切嗣が士郎を助け出したときに見せた安堵の表情に憧れたからであり、自分もそうなりたいという憧れから生じた感情でした。
それを指摘され、偽善に満ちた偽りの人生だとされ、自分の理想や感情をも打ち砕かれた状態になります。
しかし、そこで自身の理想の”始まり”を思い出します。
「正義の味方」という理想は誰のものであったか。
それは、切嗣のものでした。
誰かを助けたいと願ったのに、その理想の現実を知り、果たすことができなかった。
そんな「果たされなかった願い」であったのだと士郎は気づきます。
そして、自身の理想をこう肯定します。
「自分よりも他人が大切なんてのは、偽善だとわかっている。それでも、”そう”生きられたのなら、どんなにいいだろうと憧れた」
「俺の人生がまがい物でも、誰もが幸せであってほしいという”願い”は、美しいもののはずだ」
と言い切ることができたのです。
たとえ、自分自身が空虚で偽善に満ちた存在であったとしても、その生き方は、願いは、美しいものであるはずだと肯定してみせたのです。
この結論を受けて、エミヤは敗北します。自身がとっくの昔になくしたものを思い出し、戦いの最後には
「ひどい話だ。古い鏡を見せられている。こういう男がいたのだったな」
と皮肉りながら自分の負けを認めます。
このようにして士郎とエミヤの理想を巡る自身の在り方をかけた戦いは終わります。
次回はこの二人に影響を受けた僕の自分語りでもして締めくくりたいと思います。
三部になると思ってなかったヨ…
長くなってハードルあがってる感ありますがなにとぞお付き合いください。
次回またお会いしましょう
ではでは~(´・∀・`)
赤い弓兵の背中に憧れて(上)
院試まで一ヶ月を切りました。いいねお願いします(n番煎じ)(勉強足りてない)(これはオワタ)(私は大砲よ)
どもども、久々の投稿です。
ついに”あの人”について語りたいと思います。
その前に二つほど前置きをば。
※今回はFate/stay night [Unlimited Blade Works](以下UBW)についてのネタバレを大量に含みます。閲覧にはご注意を。
※今回主に話すのはアニメ版についてです。僕自身原作は未プレイです。設定についてガバガバな部分や、解釈違いが起こるかもしれませんが、生暖かく見守っていただければと。
さてさて、まずは
「fateってどんなお話なの?」
ということに触れたいと思います。
簡単に言うと、
「なんでも願いを叶えてくれる”聖杯”というアイテムをめぐって、7人のマスター(人間)が戦う」
という”聖杯戦争”が物語の主軸になります。
これだけ見るとよくある設定のように思えますが、その戦いが重要。
7人のマスターは、パートナーとなるサーヴァント(英霊)を召喚し、自らと共に戦うというのが、fateという作品の特徴です。
サーヴァントというのは、過去、現在、未来において
「歴史・伝説・逸話で語られる存在」
が実体化したものです。
わかりやすいところで言うとアーサー王やヘラクレス。日本人に馴染み深い存在だと織田信長とかが一緒に戦ってくれると思ってください。
激アツでしょ!?!?(興奮オタク)
…失礼しました。
そして、サーヴァントにはそれぞれ”宝具”という必殺かつオンリーワンの奥の手があります。それはそのサーヴァントの伝説や逸話を基に再現されており、武器として顕現することもあれば概念として能力を向上させることもできます。
元々サーヴァントは人間が比べ物にならないほど強力なのですが、その上奥の手を秘めており、いかにして敵を倒すかというのがミソなのです。
いや、激アツでしょう!?!?!?(息切れオタク)
ともあれ、このような伝説の存在を召喚するのですが、誰でも呼び出せるわけではありません。
サーヴァントには”クラス”というものが存在します。これはいわば「その存在がどのような存在か」というものを決める枠組みだと思ってください。
クラスは全部で7つ。
・セイバー(剣士)
・アーチャー(弓兵)
・ランサー(槍兵)
・ライダー(騎乗者)
・キャスター(魔術師)
・アサシン(暗殺者)
・バーサーカー(狂戦士)
になります。一回の聖杯戦争では同一クラスが同時に召喚されることはなく、基本的にはこの7騎が戦うということになります。
まとめると、聖杯戦争とは
「7人のマスターと7騎のサーヴァントが、願いを叶えてくれるアイテムをめぐって行う命のやり取り」
のことであり、これがfateシリーズで重要なものであると考えてください。
他にも細かいことはたくさんあるのですが、このあたりにして次はUBWについて話したいと思います。
物語の主人公はこの人
衛宮士郎(えみや しろう)です。
ごく普通の一般的な高校生だったのですが、ひょんなことから他のサーヴァント同士の争いに巻き込まれ、そのまま聖杯戦争に参加することになります。
使役するサーヴァントはセイバー
この人物、聖剣としては抜群の知名度を誇るエクスカリバーの使い手、アーサー王。
なんとこの世界線では女性だったのです。深いことは気にしてはいけません。歴史や伝説なんて曖昧なものです(目逸らし)
基本的にはこのペアが主人公ですが、もう一つヒロインとして大きな役割を果たすことになるペアがいます。
それがこちら
かわいい(かわいい)
今作のヒロイン、遠坂凛(とおさか りん)です。
僕は2次元においてアンチツインテなのですが、この人だけは許した。
かわいいは正義(キモオタク)
使役するサーヴァントはアーチャー
このサーヴァントの真名は次回で明かしますが、物語のもう一人の主人公といってもいいほど重要な人物です。
僕はこのアーチャー、そして士郎がとてつもなく好きです。今回はその魅力やどこがいいのかを中心にこのUBWという作品について語りたいと思います。
随分と前置きが長くなりましたが、話したいこととして
Fateはオタクの好きなものをわかっている
のですよええ。
だってそうでしょう!?
アーサー王の聖剣はあまりにも有名なので、その正体がバレて弱点が晒されないように魔術的な隠蔽が施されていたり
かと思ったら宝具を放つときは真の姿を現したりするんですよ。
アーチャーは弓兵なのに双剣とかいう厨二心をわかりすぎてる武装で戦い、
その上でしっかりと主武装である弓はめちゃくそ強いし
しかもアーチャーの声優は諏訪部順一さん。イケボです。惚れる。
そして出番は少ないですがアサシンとして佐々木小次郎も出ます。
彼は魔術とかは使いませんが、有名な燕返しを宝具としています。その内容もバカげたもの。
「空を飛ぶ燕を斬るには、一呼吸のうちに太刀を重ねなければならない」
として、多重次元屈折現象()
を生じさせています。これにより一つの刀で一度に3本の太刀筋を発生させ、回避することは限りなく不可能に近い絶技を持っています。
うーーーーーん好き
難しい言葉とか設定大好き。「わかんねえけどすごい!」ってなるともはや気持ちいいですね。
オタクの好きなカッコいいやつがたくさん詰め込まれているんです。
過去の伝説上の人物が出てくるだけでもアツいのにさらにカッコいい武器や戦闘シーンが迫力満点でかつそのキャラクターの魅力にも触れられるなんてそんなあっていいんですかありがとうございます本当にわかってんねえって感じなんですよ(早口)
文字だと全然語りきれませんが、とりあえずはオタク全開モードはここまで。
2つに分けて語るつもりなので今回はオタクに振り切ってみました。
次回は主にアーチャーと士郎の二人の関わり合い、そしてそれに影響を受けた僕のメンヘラ語りがメインになるのでテンションが違うと思います。
ここまでくるともはや今回は全部前置きみたいな感じになりましたが、次回メンヘラフル回転でいくので心してお楽しみにしていてください。
ではでは~(´・∀・`)
なんでゲームは楽しいのか
うぅ…チャンバラしたい…うぅ…(涙目)(子犬)(勉強しろ)(毎晩ゲームはしている)(確かじゃないけど、誰かに監視されてる気がする)
どもども、中々梅雨が明けませんね
7月も終わるのにかなり涼しい方なのではと調子に乗ってたら寒暖差でお腹痛くなりました()
さてさて、今回はみんな大好き「ゲーム」のお話です。
今や色んな人がこぞって好きなものをやり、市場としてもかなり大きなものになった文化ですよね。
そんなそれっぽいことを言ってドヤ顔する前置きはさておき、僕はというとゲームを始めたのは5歳くらい、いわゆる幼稚園の年中さんくらいからでした。
兄が通う小学校のPTAについていったとき、同じようにいつもいた小学生の子にゲームを貸してもらえたのがキッカケで、それはそれはドハマりしました。
途端に「僕も買って!」と駄々をこねる子どもの出来上がり。
誕生日にゲームボーイアドバンスSPとエメラルドを買ってもらったのを覚えています。
そんなこんなでそこから現在に至るまで、僕の人生はゲームとは切っても切り離せないものとなりました。
実際これまでの約20年間を通じて丸一日ゲームをしなかったという日は合計でもおそらく20を切るんじゃないかなと思うくらいにはずっっっっっっっっっっっっっっっっとゲームをしてきました。
自分で言うのもアレですが立派な廃人なのかもしれません。
そんなとき、ふと兄から言われたことがあります
「どうしてお前はそんなにゲームを続けられるんだ」
確かに言われてみれば。
兄もゲームをする方ではありましたが、そこは陽キャ、友人たちと楽しくやる程度で僕みたいにぼっちで黙々とやるとまではいきません。
むしろ僕はぼっちの方がゲームを楽しんでいる説すらあります
考えてみると意外と深いところまでいくもので、僕の中では二つの特徴が要因なのだろうと結論に至りました。
・「達成」することが必ず終着点にある
・非現実性
まずはゲームは楽しいものだ、というのは大前提。
僕は当時クソゲーオブザイヤー次点にノミネートされた作品を嬉々として楽しんでいたこともあるくらいどんなゲームでも基本的に楽しめる性質なので、そこはもはや気にしていません。
幼さは時に残酷な現実を知らずに済むんですね…(遠い目)
さて、まずは一つ目の特徴
「達成」することが必ず終着点にある
というところから。
人は誰しも達成感を得ると心地よくなります。スラングを使うなら脳汁が出るんですね。キモチええんです。
そしてゲームというものは必ずといっていいほど「自分の手で」「何かを達成する」という行為があります。むしろそれの繰り返しといってもいいでしょう。
たとえアクションやRPGのものでなくともいいんです。育成シミュレーションでもそこには何かを「達成する」という行為が存在しています。パズルも、ノベルゲーも、推理モノであってもね。
そこには明確に自分の分身、すなわち自分の思いのままに動かせるキャラがいて、それが自分の代わりにあらゆることを成し遂げる。これほど楽しいものはありません。
かつ、第2の特徴
これが大事というか、そりゃそうだってとこなんですが
非現実性
これもゲームにおいてとても重要。
さっきの達成することに加えて、「現実じゃない」というところも、人がゲームにハマるうえで重要なんだと思います。
人にとって「現実じゃない」っていう感覚はそれだけであらゆる行動のハードルが下がります。
それこそ自分が普段じゃできないこともたくさんできるわけです。
・普段自分ができないことを
・自分の意のままに動かせる分身が
・あらゆることで達成していく
これがかみ合うことで人はゲームにとてもドハマりするのかなと思った次第です。
まあこんなことを考えながらゲームしてたら楽しいもんも楽しめないので、それはそれとしてゲームを楽しむのが大事なのかなと思います()
世のクリエイターさんたちに感謝して、今日も楽しくゲームしたいと思いますね。
ではでは(´・∀・`)
うーーーーーん自己
嫌だ…浪人は嫌だ…勉強してないけど…(震え声)(死んだ魚のような目)(じゃあ勉強しろ)(マジで何も手をつけていない)(ダウンした、救援をお願い)
どもども、お久しぶりです。めっちゃいろんな人からブログについて言われて舞い上がってました。出願とか色々済んだのでまた投稿しますね。
そろそろメンヘラ回投稿するかあとか思ってたら「え、もうすでに結構なこと書いてません?笑」みたいなこと言われてビビったところです。やはり自分語りには慎重にならねばいけませんね()
今回は僕が子どものころからずっと考えてきていることについてですね。タイトルにもあるように、自分というものへの価値観とか考え方についてです。かなり曖昧で感覚的な話も含みますので、意味わからんことも言うかもしれませんご了承を。
僕は昔、本当に小学1年生くらいのころから、"自分じゃない誰か"の視点から自分のことをよく眺め、観察していました。もちろん今でもその感覚はありますが、特にそのころはそういった「自分のことを眺める」ことが多かった気がします。
そしてそこで見ていたものは、自分の行動とかではなく、内側、それもかなり精神世界というか、上手く言い表せないですが覗こうとしても中々見えない部分によく思いを馳せていました。
さすがに友達といるときはそんなことしていると浮いてしまうのでそんなことしませんが、今でも練習場所で独りぼっちのときとか虚空見つめてたりするときは、どこか自分の世界に入っていることが多いですね(え?ばっちり浮いてる?うるさいよ)。
逆にそのせいで陰キャまっしぐらになったり、今では「話しかけんなオーラがでてる」って言われたりするんですけどね()
さて、内側を覗くとなると、まあ昔から一貫して同じ感想を抱くんですよね、「空っぽだな」って。人間性としてもそうですが、単純に空洞に見えるんですよね、そりゃ視覚的には何も見えていないので当然っちゃ当然ですが。
そのせいで「自分という存在がいなくなると世界はどうなるんだろう?」「この世にはワイ一人しかいないのか?」みたいな感覚を子どものころから持ってしまい、どこか達観した、悪く言えばスカしたイキり少年が誕生しました。
でも実際、一つ目の疑問については今も似たようなものを持っていて、世界を知覚している(と思われる存在)のは僕一人なわけなので、それがいなくなれば”この世”はどうなるのか、というのは純粋に興味があります。まあ死んだらそれも認識できないのでとってもジレンマなんですけどね!www(自殺企図があるわけじゃないので安心してくれよな)
そんな風にして内側を覗いていくとなると、色んなことに考えが至ります。「自分は何のために存在しているのだろう」「自分は何をすればいいのだろう」みたいな、いわゆるアイデンティティの模索の時期が、僕はかなり早い段階で訪れました。それこそ小学校高学年くらいからは考えてましたね、変な子どもです()
とは言っても子どもが考えられることなんてたかが知れているので、あまりいい結果にはたどり着かず、最終的に自分は
「最期に良い人生だったと思えればそれでいい」
という結論にたどり着きました。この結論がまぁた厄介で、このせいで色んなことへの執着がなくなってしまい、僕という人間を今もなお悩ませ苦しめ続ける「自分という存在の希薄さ」を決定づける価値観になってしまいました。まあこれについては後日例の赤い弓兵のネタとともに語ります。
んで、昔からこんなことを考えていたので、人との関わりについても上手く自分を表現する術を知らず、上手いこと生きのびることに必死でした。なんでかって言うと、
自分が見ている自己と他人から見える自己が違うので。
そこで対人関係を円滑にするために、要は齟齬を無くすために僕は
他人から見える自己像を演じる
という方策を取りました。いわば仮面を上手く被るようにしたんですね。
悪く言えば自分の本心を隠すという風にも捉えられますが、でも相手が求める像を演じられるなら、それは悪いことではないはずだ。という考えのもと、こうして僕の基本的な対外姿勢が出来上がります。
自分という存在については、今もなお眺め続けていて、とってもメンヘラになったなあと思いながら今も生きています。
ここで勘違いしないでいただきたいのは、別にこれについて僕は悩むことはあっても後悔とかはしないようにしているのですよ。
というのも、先ほどの最期に良い人生だと思えればいいという価値観は、
「そこまでの歩みすべてを肯定する」
という考えが大前提にあります。言い換えれば、
「それまでの自分は否定しないようにしたい」
という一種の防衛機制とも言えます。この考えがある限り、僕はまだ何とかギリギリ生きていけるのかなと思います。この考え地味にオススメなので、マジで。皆さんも困ったらとりあえず未来の自分に丸投げして胸張って(ココ重要)その刹那を過ごしてみてくださいね()
長々と話してきましたが、収拾がつかなくなりそうなのでこのへんで。自己観というものは人それぞれで、僕みたいなメンがヘラってるやつのアレコレを聞いて、共感してくださる人もいれば、ドン引きする人ももちろんいると思います。苦しみ悩んでる人の助けになればなんて大層なことも考えてません。助けになるような内容なんてないy…ないですからね!!!
タイトル画像にもあるように、これはあくまでも自分語りのための場なので、読んでくださってる皆さんのことは考えているようで実はただ僕が言いたいことや頭に浮かんだことを書き連ねてるだけです。
ただ、それでも、もし誰かの何かに、水面に小石を投げて広がる水紋のように、響くものがあったらいいなという、少しのエゴをボソッと呟いて、今回は終わりにします。次はまた明るい話題を提供できたらいいなと思います。
ではでは~(´・∀・`)
厨二病は不治の病也
―これは、とある男の
自分語りである―
(ドヤ顔)(ダダ滑り)(気づいていない)(若気の至り)(バックパックを発見! レベル1だ(落胆))
どもども、どうにか2回目です。ゴロゴロしてばっかで人と話せてないの病んできますね。
え?元からだって???
HAHAHAこれは失礼☆ぶっとばすz
前回と比べてぼくは文字を大きくしたり強調したりできるようになったので地味に感動しています。最初からやれってツッコミはしないでくれよな!!!
便利な世の中ですねえ…(しみじみ)(読みやすくなったとは言ってない)
さて、遊びはここまでだ。
本題に移らせてもらうとしよう…
人はある時期を境にとある"病"に罹ってしまう…
これは若年性であるが、一度罹患すると中々抜け出すことはできず、人間によっては一生そのままということもあり得る…
その恐ろしい病の名は―
厨☆二☆病
すいませんこれがやりたかっただけです。辛かった()
皆さんもよく耳にするしなんなら罹患者いますよね、そこのあなたとかね?^^
この病は本当に罹るもので、世間でイメージされてるような「左手が疼く」「右目の封印が解かれてしまう…ッ!」みたいないわゆる邪気眼系
(とりあえずよくわからんけどカッコいいからヨシ!)みたいに心の中で思って若さに任せて突っ走るタイプ
(まったく…勝手に人の脳内を読むのはよくないぜ?)的に見た目普通なのに頭の中では常に妄想爆発してるタイプ
などなどいますよね。僕は2番目と3番目の中間みたいな感じですね。とりあえずそれっぽいこと言ってドヤ顔して恥ずかしくなるけどさらにその続きとか頭の中で考えちゃうタイプ()
とある時期とかバリバリに妄想して恥ずかしくなった後、誤魔化すために頭の中で(おい…何覗いてんだよ)みたいなこと考えて二重苦をしょっちゅう抱えてましたね()
ハズカシイ
いやはやこういうのって本当にずっと続くもので、「カッコいい」を追い求めるとすぐ発症するんですよね。特撮とかが好きだったり、ゲームが好きだったり、とにかく「自分に刺さるカッコよさ」を前にすると一度罹患した人はすぐに症状を表してしまうんですねえ恐ろしい。
悶えてきたので路線変更()
多分そういう"好きなもの"があるのはある意味良いことですよね。いつまでもおっかけられるものがあるとそれだけで楽しいもんです。
僕なんかは幼稚園の年中さん(5歳くらい?)とかからゲームをずっっっっっっっっっっとやってきたのでもう生活の一部になってるくらいなんですよね。
そんなだから厨二病を発症するのは当たり前だったわけで。
幼い頃から色んな「カッコよさ」に触れてきました。世界を救うために自分の身を犠牲にする者、助けたい人がいるからあらゆる苦難を乗り越えて旅をする者、夢を追いかけ続けついにはそれを叶える者。
そのせいで子どもの頃なんて一時期「狼に変身したい」とか考えたりしてましたね、懐かしい。
そんなカッコいい人たちを見ているとね、まあそんな世界が好きになっていくし、抜け出せなくなるもんです。結果的に厨二病という名の「カッコよさ」を求める病は治らずに、上手く美化して大事にし続けちゃうんですよね。
これが大人になるってことなのかもしれない(厨二病ポイント)
まあだからといって人前で「闇の炎に抱かれてうんたら」とか「フハハハハハ!!!滅びのバースt」みたいなことしてたらいけませんよ?上品に嗜みましょう(戒め)
まあこんな風に考え方とか思考をちょっと変えるだけでなんとなーく誇らしく思えてくる気がしませんか。
え?しない?
…………しろよ()
まあ何はともあれ厨二病ってのは悪いもんではないんですよってのが今回のお話。
なんとかメンヘラ出さずに乗り切れたヨカッタ
また気が向いたらこんな感じのことを書いていきますね。
それではまた皆さまお元気で~(´・∀・`)
うるせえ書きたいこと書かせrアッスミマセン…()
嫌だまだ遊んでいたい(大の字)(クソデカボイス)(現実逃避)(堕落への確実な一歩)(ここでAPEXを始める)
どもども、ついに人と話さない生活も終わり、この前中途半端に友達と会話してしまったばっかりに人からの承認欲求を満たしたくなってこんなものを始めてみました。
今回は導入というか初回もあってぬるっと優しい内容で終わろうと思うけど、まあこれからは主にワイがどんなことを考えて日々を生きているかとか、どれほどメンヘラなのかを書き連ねるクッソ重暗い陰キャブログになっていくと思います()
真のメンヘラ陰キャとは何なのか、というもはや深淵に近い真っ黒なものをお見せできると思います(ハードル爆上げ)
もちろんチャンバラのこととかゲームのこととかオタク丸出しのことも書いていくからな!!!
え?卒論?そんなものは知らな(ここから血で汚れて読めなくなっている)
…ブログって何書けばいいかわからないけどさ、論文書いたり人と会話したりするよりは頭の中スッキリ書き出せるからとっても楽だよね、こんな感じで取り止めもないこと書いてても何も問題ないの素晴らしいね、うん。
僕のことをご存知の方は知っての通り、自分はかなりのコミュ障なのですがこういう文章を書いたりするのはとっても好きなんですよ。なので地味にブログ始めるのは楽しんでたり。会話だと考えがまとまらなくても、書き言葉ならすんなりいったりしますよね、人の個性ってまちまちで面白いなあ(心理学徒感)
まあなにはともあれ、これからは暇ではないが暇なとき、あとはメンヘラ的思考が浮かんできたときにちょこちょこ書いていきたいと思います。
とりあえず書こうと思っているのはfate/UBW関連のメンヘラ話とかね。アーチャーはいいぞ、ワイも理想を抱いて溺死したい(叶わぬ願い)
初回だしここいらで終わります!とりあえず皆様これからどうぞよろしくお願いしますん(´・∀・`)