語り部タマザラシの堕落生活

日々是メンヘラ也、あぁ怠惰

赤い弓兵の背中に憧れて(下)

見える…浪人の未来が…(絶望)(ここに書くネタなくなってきた)(そんな人生)(黙れ皮つき)

 

 

 

 

 

どもども、ようやく自分語りまでこぎつけられました。

色々話しましたが、ついに僕がFate/stay night [UBW]をどうして好きなのかについて、また何に影響を受けたのかについて語りたいと思います。

 

その前に、色々と知っておいてほしいあらすじをこの前書いたので、お時間ある方はそちらも読んでいただけるとわかりやすいかと思います。

あらかじめ言っておくとクッソ長いのでそこだけご了承を()

 

naru-764.hatenablog.com

 

 

 

さてさて、そんなわけで僕がなぜ士郎とエミヤ(アーチャー)に惹かれたのか。

 

僕自身の人間性との類似点が多かったことからくる共感・感情移入

 

そして僕にはないものを得た(結論にたどり着いた)

 

というところが、ザックリとした理由です。

 

 

 

 

 

 

僕は昔から、自分という存在がとても曖昧で、それについてずっと考えてきました。

 

年を重ねるごとに自分に対する評価は変化していき、やがて自分という存在の空虚さ・薄さに嫌気がさしていました。

 

「自分」という存在がなく、あくまでも「他者」が行動の基盤に置かれており、そこには自分の内から湧き出るモノがなかったのです。

少なくとも自分自身ではそう感じていました。

 

 

好きなこと・得意なことはあっても、「やりたいこと」はなかった。

 

自分の中核となるもの、すがるもの、信念、理想

 

そんなものはなく、ただ日々を「なんとなく」で生きていました。

周りに合わせて生き、自分の意見は押し殺し、ひたすら相手を分析し、状況を俯瞰しました。

そうして、「ただ他人から求められる姿」を追求し、見せ続けてきました。

 

 

 

 

それが普通、誰しもがそう。

 

時にはこんなことも言われました。慰められることも、励ましを受けることもありました。

 

でも、それを受け止める自分がいないのです。たとえ励ましであっても、メンヘラ話はめんどくさいから終わらせようとしただけの言葉でも、それは何か別の空間に置いていかれるかのように、溶けてしまうのです。

 

 

 

 

幸いにも色々なことへの適性はありました。頭も悪くなかったし、運動もそこそこできました。あらゆるスペックが中の上くらいであったのは、幸運でもあり不幸だったのかもしれません。

 

これのおかげで、一通りのことは真面目に取り組めば平均にはこなせたのです。このせいで、より「周りの求めるカタチ」を実直に体現することができました。

 

自分からではなく、あくまで

 

他人が言うから。

これをすれば喜ばれるから。

自分にはそれができるから。

自分ではわからないから、言われた通りに。

 

 

そんな風にして、これまでを生きてきました。

 

 

 

 

そんなことを考えていたときに、Fate/stay night [UBW]に出合いました。

 

 

 

びっくりしました。

 

主人公の男は、自分よりも他人の方が大切だと言う。

それを認められず、その男を亡き者にしようとするのは、遠い未来で、その男が自身の理想を正しく叶えた姿だという。

 

 

 

 

 

 

 

 

何度も見返しました。

何度も同じ場面を、それこそセリフを一言一句覚えるほど見て、何度も彼らの語らいを、己の信念のぶつかり合いを、何度も、何度も、そしておそらく、これから先も何回でも見返すであろうほど、強く惹かれました。

 

 

 

 

 

 

主人公の士郎は、己から湧き出るものがなかった。自分の考えや感情がなく、あくまで他人のために行動するという存在でした。

 

自分と似ていると思いました。けれど、一つだけ、決定的に僕とは違う部分がありました。

 

 

 

彼には、自分の中心となる理想があったのです。

 

たとえそれが借り物であり、自分の内から出たものではないにしても、自分の中で絶対に譲れないものがあったのです。

 

 

そして、エミヤシロウという男の生涯はその理想を叶えるために費やされ、やがてはついにそれを叶えてみせたのです。

 

 

 

 

 

 

それは、どんなに難しく、歪であり、また美しいものであるのか。

 

自分から生じたものでなくとも、一つのことのために生き、それに人生を捧げ、ついには成し遂げる。

 

 

 

 

 

僕はそのことを知ったとき、鳥肌が立ちました。

 

作中の言葉を借りるならば。

「そう生きられたのなら、どんなにいいだろうと憧れた」

のです。

 

 

 

さらに、自身の理想を叶えた後、そこには何も残らなかったと絶望したエミヤを、士郎が倒すとき、彼はこう結論づけることで、これから歩む道に光明を見出します。

 

 

「自分よりも他人の方が大切なんてのは、偽善だとわかっている」

「けれど、誰もが幸福であってほしいという”願い”は美しいもののはずだ」

「最期まで自身が偽物であっても、その願いは、決して、間違いなんかじゃない」

 

 

 

彼は、自分自身を偽善に満ちた存在であったとしても

 

自分の生き方は、理想は、美しいもののはず

 

 

だと肯定してみせたのです。

 

 

 

 

 

「自分」ではなく、「生き方」の肯定。

 

それはとても、衝撃でした。

 

 

 

 

自分なんてものはなく、どこまでいっても空虚な存在であっても、その過程で多くのことを成しえたのなら、その”生き方”には、「何か」があったのだろう。

 

 

 

 

そんなことを僕は感じ取りました。

 

 

僕は自分という存在がなく、あまりにも空虚で、希薄さを感じていました。

 

けれど、最期に、その過程を振り返ってみて多くのものがあったのなら、それは「良いモノ」ではないだろうか。

 

という結論にたどり着くことができました。

 

 

 

 

終わり良ければ総て良し

 

という言葉のニュアンスに近いですが、そのように、自身の生き方を認めることができたのなら。

 

多少は、あの背中に近づけるのだろうかと。そんなことを思うことができたのです。

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まあ、肝心のどう生きたいかとかはまったく定まってないんだけどな!!!

 

とりあえず自分ではなく、そういう自分の生き方を認めることができるってだけでも、良いってことにしようという現実逃避癖がついただけです!(怠惰)

 

 

以上、こんなドメンヘラのブログを読んでくださりありがとうございました。

 

 

次回以降はメンヘラ成分抑えていくんで、安心してくれよな!

あといないとは思いますが、もっとUBWについて知りたいという方はパワポとか準備していくんで呼んでください(ウズウズ)

 

ではでは~(´・∀・`)

 

 

 

 

 

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